失明とはもともと目の見えていた人が、病気や怪我で視力を失うことです。

端から話は飛びますが、中途失明と先天盲は何が違うか。それは世界のとらえ方が全く違うのです。中途失明の人は、たとえ今目が見えていなくても、象と言われればあの象を思い浮かべるし、大木と言われれば大木を思う。

しかし、先天盲の人は動物園の好意で象の足や鼻に触ることはできても、その姿を思い浮かべることはできません。富士山や夜空の星の美しさは、いくら聞いてもわからないし、三角関数や対数を理解することも難しい。もっとも、これは目が見える私もあまり得意ではありませんが。

つまり、目の見える人はこの世界を目で見る空間として捉えているので、先天盲の人とは世界に対する感覚が全く違います。

目で見る世界に生きる人々。その正常視力とは1.0や1.2です。この視力が低下をすると0.5や0.1と表現され、さらに悪くなると0.01という下二桁の数値で示されます。しかし、これが最悪の視力ではなく、0.01を切ると、目の前にある指が判別できる距離で表現します。20cmの距離で指の本数がわかれば20cm指数弁。30cmの距離ならば30cm指数弁といった具合です。

医学的に完全な失明とは視力が0の状態、すなわち明暗の区別もつかないことですが、実際にこうなった方に話を聞くと「ぼやけた白っぽい世界にいる」といった答えが返ってきます。

このように完全な失明の状態ではなくても、人の顔がわからなくなるほど視力が悪くなると、自立した生活ができなくなり、この場合は社会的な失明として扱われます。

厚生労働省が定めた「眼の障害に関する障害等級認定基準」、「身体障害者程度等級表」なるものがあって、ここに視覚障害の程度が細かく分類されています。級から6級までありますが、3級を超える高度の視覚障害者とは、両眼の視力の和が0.1にも満たない人で、わかっているだけで約20万人です。ただ、身障者の手続きをとらない人もいるので、実際はもっとたくさんいるでしょう。本当のところはわかりませんが、厚労省の数字をもとにすれば、1億2000万人のうち20万人、およそ600人に1人が失明と言うことになりますが、この数をどう感じられるでしょうか。

視覚障害者の3割が不慮の事故や怪我、7割が病気による失明です。原因となる病気は緑内障、糖尿病がおよそ2割ずつ、網膜色素変性症、HGPゴシックE;mso-hansi-font-family:”MS 明朝”;color:black’>加齢黄班変性、強度近視がそれぞれ1割前後です。

昨今マスコミでさかんに緑内障の啓蒙活動が行われて「失明にいたる病気」と言われますが、実際どのくらいの人が、この社会的失明にいたるのでしょう。

40才以上の人に限った話ですが、緑内障患者は全国で推定300万人です。全国で失明をした人は20万人、そのうち7割が病気による失明、そのまた2割が緑内障とすると、約3万人ですから、緑内障患者のおよそ100人に1人が失明という勘定になります。健康な人も含めて、全国民の失明率の約6倍ですから、それほど大きな数字ではありません。

そして、失明にいたる人のほとんどが、長い治療期間を経た高齢の方です。何十年もかけて徐々に視力が悪くなっていきますが、その間、生活にはどんな変化が見られるでしょうか。

最低限の生活をする上でも、目は必要不可欠な感覚器官ですが、一方でちょっと贅沢な目の使い方もあるので、重要な順に目の機能について、考えてみたいと思います。

まず、目の最も基本的な機能とは、冒頭に記した通り、世界を空間としてとらえ、自分の位置を知ることです。人はあたりを見渡して、自分の周囲の地図を思い描き、その中で活動をする予定をたてるのです。

その活動とは必要な所に出かけて、いろいろな用事を済ませる、何気ない暮らしです。野生の生き物だったら、生きるために危険を避けて餌を捕るという基本的な行為です。

これができたら次は他人とのコミュニケーションです。世間で暮らすためには、他人の行動や表情を見て、相手が笑顔でいるのか、アカンベーをしているのか、見分けなければなりません。

私は洋服屋にぶらりと入ったときに、店員にとやかく言われるのが嫌で、近づいてきそうな素振りを見ると、さっさと店を出てしまいますが、これも店員からの意思の伝達で、見えるからこそできるコミュニケーションの一環なのです。

あとは美しいもの、感動するものを見る喜びをもち、現代の社会で生きていくためには、職業をもって安定した生活を続けなければなりません。こうして視力が保たれて、人間は初めて総括的な幸福感を味わいつつ、生活を送ることができるのです。

その幸福感とは、人間として社会の役にたちながらも、独立した生活を送ることで、自信も生まれるし、プライバシーを保つこともできます。

ところが人は何かの理由で、視力が衰えると今述べたことから、逆の順番に生活が失われていくことになります。まず、へそくりのような隠し事ができなくなるし、ちょっとした失敗も自分で片づけることができなくなって、プライバシーが保てなくなってしまいます。

これまで通りの職業を続ければ、失敗も多くなります。もし、私の視力が悪くなって、眼底の病気でも見落とすようになったら、それはもう目医者としてお話にならないのですから。職業がもてなくなれば、経済的にも安定せず、自信も失います。ただ、職業については現役の人の失明と、引退をした人の失明と少し意味が違ってくるかも知れません。

その他新聞を読む楽しみ、春の芽吹きを見る楽しみ、孫の顔を見る楽しみがなくなったという嘆きを聞きますが、ここに妻の顔が出てこないのは、ちょっと不公平かも知れません。

ともあれ、これは楽しみだから仕方がないとしても、他人の表情がわからなくなると孤独感に襲われて孤立をすることになるし、道が歩けなくなれば自立した生活はできません。

視力の低下とともに生活は不自由になっていきますが、最後まで残る機能とは、自らの存在感覚で、うっすらとでも見えれば、自分の居場所はわかります。

失明の恐ろしさとは何か。それは最後の機能を失って、生きながらに、自分の位置すらわからないような、全く別の世界に放り出されてしまうことなのです。