「人間はどこからきて、何をして、どこに行くのか」

永遠のテーマですが、これは人に限った問題ではありません。他の生き物はもちろん、人の身体を構成している細胞群と言うミクロの世界、太陽系を構成している惑星群と言うマクロの世界、いずれも誕生してから相互に影響を与えあい、やがて消滅するという過程は、その時間にこそ大きな違いがありますが、とてもよく似ていて私は感動すら覚えます。

60億の民が誕生と死亡を繰り返してきたように、身体には60兆もの細胞があって、日々入れ替わっています。1日に消滅する細胞は約3000億、この数は全体の200分の1に相当します。

以前、唯物論が浸透したソ連で、1人の死刑囚が獄中で何年か過ごした後、全ての細胞は入れ替わって全く別人になったのだから、今の自分は無罪という主張をしたけれど、受け入れられませんでした。思ってもみない発想ですが、細胞には入れ替わるものもあれば、生涯生き続けるものもあって、全部が替わるわけではない。第一、犯した行為に罪があるので、細胞が悪いわけではありません。

ともあれ身体には血液や皮膚のように分裂をする細胞と、神経や心臓の筋肉のように再生はせず、生涯減る一方の細胞があります。どちらもやがては消滅をするのですが、消滅の意味合いがちょっと違います。

分裂をする細胞は赤血球のようにある期間活躍すると、若くて元気な細胞に活躍の場をゆずります。また、ウイルス感染や癌化をした細胞は、みずから消滅することにより、個体の生命を守ります。人の身体とは細胞が寄り集まって支えあい、時には犠牲者を出しながら運営される細胞社会なのです。

もし、一つ一つの細胞に心があるとしたら、生命の維持をするために自ら死を選ぶ、何と犠牲的な精神でしょう。

これを細胞というレベルから昆虫に置き換えてみても同じです。働き蜂は蜜を集め、ときには巣を護るために犠牲となって侵入者を攻撃します。女王蜂は蜜をなめているだけで、ずるいじゃないかと思いますが、女王蜂には女王蜂の役目があって、遺伝子を次世代に伝えなければなりません。働き蜂も女王蜂も単独では意志をもっていないでしょうから、ずるいとか得をしたとか、そんなことを考えない。一つの巣全体で人ひとりのような生き方に見えてきます。

一方、分裂をしない細胞はと言えば、同じ細胞が働き続けるので、その数は減る一方、援軍はどこからもやってきません。こちらの方は、何が何でも生命を維持するというより、適当な時期に細胞とともに個体を消滅させる、要は寿命を決める役割があるようです。

大脳皮質を例にとってみると、150億の神経細胞のうち、年間4000万の細胞が消滅して、100才まで生きたとすると4分の1がなくなる勘定になります。視神経の場合はもともとの細胞が100万、40も半ばを過ぎると年間に5000本くらいなくなるので、単純に計算をすれば100才でやはり4分の1が消滅。なんとよく似た数値でしょう。

これが通常よりも早くなくなると、脳の場合はアルツハイマー、目の場合は緑内障ということになってきます。

こうして分裂する細胞と、分裂をしない細胞がそれぞれほどよく働いて、あまり早死にをしないよう、長生きをし過ぎないように身体をコントロールします。

そしてこの他に最も重要な生殖細胞というのがあって、身体が消滅するまでには、遺伝子で情報を次の世代に伝えていくことになっています。細胞も昆虫も人間も、それぞれの社会の一員として誕生し、時には自己を犠牲にしながら社会に貢献して、そして確実に死を迎えます。

現実はこういうことですが、ではどうして人間は死ななければならないか。

大腸菌のような単細胞の生き物は、DNAが輪になっており、人と違って劣化をしません。無性生殖なので、理論的には無限に分裂を繰り返して、生き続けます。

ところが人の場合は有性生殖、ご承知のように人のDNAは二重螺旋構造で、生命が誕生するときには男女のDNAが混ざって、新しいDNAが生まれます。大腸菌のように同じ身体が生まれるのではなく、唯一無二の新しい命が誕生するのです。

こうして新しく誕生するDNAは親のDNAと似てはいますが、ほんのちょっと違います。そして変わり続ける地球環境に、よりよく適合していかなければなりません。実際、こうして進化をし続けてきたのが、今の人間であり、他の生き物であって、古いDNAをもった個体は適当な時期に一掃しなければならない。

人の一生という単位でものを見れば、誕生に始まって死ねば終わりです。しかし、終わってしまう自分とは何かと問えば、それは身体ではなくて、もともとDNAのもつ「情報」そのものなのです。

そんなことはない、自分にはとびきりとは言わなくても、均整のとれた身体があって、手足も顔も自分のもの、自分はここにいるという言い分もあるでしょう。

でもおお怪我でもして義足に技手、これに加えて人工心肺と身体をどんどん入れ替えても、やはり自分は自分です。これからの科学の進歩を考えれば、脳以外は何でも代用ができるかもしれない。さらに、脳までもこれまでの記憶をコンピューターに移植することができたら、自分とはこれまで貯えてきた記憶という「情報」でしかない。

誕生と死を繰り返すことによって、進化をし続けてきた情報をコンピューターに閉じ込めてみても仕方がない。

DNAとともに誕生した新しい命も、ほんのちょっと進化をした子供が育って、時がたてばDNAが端からだんだん壊れて、やがて身体のあちこちが傷んで、記憶もおぼろになって死が訪れるのです。

老人のうつ病や自殺が社会問題にもなっていますが、身体ばかりでなく、私個人的には脳に蓄えられた記憶も整理がつかなくなって、情報の寿命が近くなったのではないかと思っています。

こうして考えると、死とはこれまで生きてきた間にため込んだ記憶が途絶えること。自分とはこれまで生きてきた記憶の集大成です。

それでは、人間はいつ死ぬのでしょうか。心臓と呼吸がとまって、瞳孔が大きくなって、身体が冷えてくれば古典的な死ですが、こうなっても生きている細胞はたくさんあって、死の瞬間などというものはない。人は長い時間をかけて、少しずつ死にいたります。この順繰りに死に行く時期は、脳出血の後遺症で寝たきりかも知れないし、病室で癌と戦っているかもしれない。

少しでも長生きをする対策をとるか、回復の見込みがないのなら、痛みだけを取り除く処置をするか、いろいろな考え方があって、結論は本人の意思が尊重されます。2000年度、寝たきりの老人は約100万人で、そのほとんどが「人に迷惑をかけず、苦しまずに死にたい」と口にします。この時、きちんとした思考力が残っていればいいけれど、認知症の老人は約200万人、記憶が霧散しかかっている中で、こうした意思を表明するのは難しい。

そのためには、Living will、終末期宣言など、元気なときから自分の死に方を表明しておく方法がいろいろあります。

スパゲティー症候群といわれるように、意識もなく管だらけの身体で、病院のベッドに横たわる姿はどうもぞっとする。身体は少しずつ死に行くにしても、もともとの自分が記憶の総体であるとすれば、意識がなくなった時点で、死と考えてもいいのかもしれない。一時期臓器移植をめぐって話題になった脳死とは、人工呼吸機に繋がれた時だけに見られる現象で、心臓は動いているけれど、脳は死んでいると判定された状態です。このあたりはいろいろな見解がありますが、今の臓器移植法では、自らの生と死を自ら考え、判断し、文書で明示することになっています。要は自分の死は自分で決めるのです。

他の人は知らないけれど、私は役にたたなくなっても、食い扶持を減らすために恐山に行く気にはなれない。だけど、用済の身体に膨大な介護と医療費を使ってもらうつもりもない。

ここに生まれてきたこと事体、100回も宝くじにあたるような偶然が重なった結果です。この場に居合わせた喜びを感じて、その記憶をさらに豊にする環境や、意欲がなくなって時点で、私は終わりでいいと思うのです。