「人が生きている」ことには、いろいろな段階があります。
1)疲れて懇々と眠っている人
2)森の中で遭難、飢えを凌いでさまよう人
3)一ヶ月もかかって完成した絵を眺める人

どれも死んではいませんが、1番目はかなり植物的な要素が強く、身体の内部で物質やエネルギーの流れが続いている現象です。疲れていようが意識がなかろうが、人は生きていますが、ここに目や耳が関与することはありません。

2番目は周囲の環境に対する活動で、免疫反応を起こしたり、危険を察知して起こす行動です。これは人間に限ったことではなく、生き物はすべからく五感を働かせて、まわりの情報を取り入れ、危険を避けたり食料を手に入れるために活動をします。生きるために必要な五感とは「体性感覚」と言われるもので、目はその中の一つに過ぎません。

視覚とはもともと皮膚感覚が進化したもので、場合によっては、コウモリやイルカのように超音波と耳であったとしても、性能がよければ一向に差し支えはありません。生き物の生活とは、常に「体性感覚」を通した情報のinput、判断そしてoutputとしての行動の繰り返しなのです。

ところが3番目は人間特有の知覚、意識、心の問題で、ここから先はなかなか医学の範疇で判断ができないことが多く含まれます。

「見る」ことにも「生きる」ことと同じように、いろいろな段階があって、目はほとんど休んでいる時もあれば、動物的な働きをしたり、人間的な見方をしたり、実に多様な側面をもっています。

では、人は実際に生活をする上で、いったい何を見ているのでしょう。

あまりに当たり前なので、考えたこともないと思いますが、目の最も基本となる働きは自分の位置の確認です。何をするにも、まず自分と周囲の関連を把握しなければ、その先に進みません。

人の一日とは、眠りから覚めて植物状態から動物へスイッチオン、天井と見慣れた壁を見て、自分がどこにいるか、その確認から始まります。回りの世界を見ると同時に、自分の居場所を把握するので、これは生きていることの実感と言ってもよいでしょう。これさえわかれば活動の準備は完了、後は生活に必要な情報を次々と取り入れます。

スリッパを見つけてそこに足を入れる、タンスを開けて洋服を見つけて・・・。全てが情報のinput、判断そしてoutputの繰り返しです。この繰り返しの中に、今日一日の生活の計画をたてて、予定の行動の変更があり、そのための地図をこしらえるのです。

これが普段の生活ですが、そのためには必要な情報だけを仕入れていればよいので、余分なものを見る必要はない。人は目を開いていても、ぼんやりしている時間がかなりあるのです。階段もひと目見ておけば、あとは目を閉じていてもトントントン、最後の2~3段目で再び足元を確認すれば十分です。テーブルに並んだ料理を見て、箸をもってしまえば、テレビに目をやっても食事は済んでしまいます。

階段もテーブルも、一旦見てしまえばあとは覚えたままに、自然と身体が動くのでこんな時、目はほとんどものを見るための準備状態です。

ところがこんな大雑把な目の機能、あるいは準備状態だけではどうにもならないものがあります。それが文字と記号で、これだけは一所懸命に見なければならない。薄暗がりでソファーに座ってお茶を飲むことはできるけれども、テレビのリモコンは数字をきちんと見なければ変えられないのです。

また、社会人として人並みの暮らしをするためには新聞を読んで、役所の書類を書いて、スーパーの小さな値段票を見る必要があります。とくにデスクワークを生業とする人は、コンピューターであれ紙であれ、文字を見続けなければなりません。

しかし、よくよく考えてみれば、現代の生活に必要不可欠な文字ですが、どうしても目で見なければならないものではありません。しゃべるロボットのように次々と画期的な技術が登場する今日、耳で聞いたり手で触れたりして、読み取る方法があれば、それでも目の代わりは務まります。

では、どうしても目でなければいけない機能とは何か、それはものを見る楽しみです。春の芽吹き、自然の中で暮らす生き物、家族の顔、サッカーの劇的な勝利、セクシーな女性、どれも言葉で説明をされても仕方がありません。

見る楽しみとは、文字のような単純な情報ではありません。実際の世界には無限の情報があふれていて、見たものの像はこれまでに蓄えた記憶と密接に結びついています。初対面の人を紹介されたときには、顔をまじまじと見て覚えようとしますが、親しい友人に会った時には、ひと目でその人とわかります。これは今までの記憶と目から入った情報が一所になって生まれる、一瞬の判断力なのです。

見て感動をするということは、秋の紅葉であれ、ゴッホの絵画であれ、それぞれの人がこれまでの記憶と、全人格をもって感じ取ることで、感動を呼ぶのです。視力を失うということは、見るものが虫けらであれ、雲の流れであれ、自分の過去の経験がつまっているので、過去の思い出も一所に封印されてしまうことが最も恐ろしい。

長々しくなりましたが、整理をすると、私達がものを見るということには、次のような要素があります。

1)自分の存在感覚
2)行動をするための情報のinput
3)文字を使った意思の疎通
4)見て鑑賞する楽しみ

これらの目の機能がその都度無意識に働いて、初めて人は独立した生活を行い、プライバシーを保つことができます。職業をもって経済的にも自立するし、家族と文化的な生活を送り、幸福感をたもつことができるのです。

視力が衰えてくると、このような機能のどこかから綻びが出ることになりますが、生活の何が犠牲になっていくか、次の機会に考えてみたいと思います。