ヘレンケラーは目も耳も役にたたなかったけれど、もしどちらかでも回復できるとすれば、耳が欲しいと言った。

たいがいの人は耳よりも目を欲しがるもので、それだけ人の生活とは目が頼り、とくに二十世紀は視覚の世紀と言われます。その理由は顕微鏡や写真が発達をして、何事も形として捉えるようになったことと、何と言っても映像の発達です。今やテレビはミクロの世界から地球の裏側まで見せてくれるし、ニュースは映像で配信をしなければ、人々に感動を与えません。実際こんなに難しいことを言わなくても、見えなければ食事も散歩もできないのだから、目のない世界は恐ろしい。

ところがこの地球上に目が登場したのは、さほど古い話ではなくて約五億年前、軟体性三葉虫が最初に目をもった生き物です。その前の三十億年の間、全ての生き物は闇の中でもっぱら肌と耳、それに口と鼻、あるいはそれらしい器官が頼りでした。

遠くの音は聞こえたかもしれないが、それはあまりに大雑把な感覚で、現実には身のまわりだけが世界の全て、その生活はいたってのんびりしていたように思います。振動が伝わってくれば何かの存在を知って、それが美味しそうならいざって口に入れるし、危険を感じれば遠ざかる。生き物は何億年もこんな生活を続けて、その間耳も鼻も少しずつは進化をしたでしょうが、目の獲得はあまりに急激な変化でした。

それは物理的な刺激や化学的な刺激と全く違い、電磁波という媒体を感知するものです。

まず五億年前に光を感じる細胞を手に入れた生き物は、日向と日陰の区別がつくようになりました。今のイソギンチャク程度の視力で、何かが近づく気配は感じるかもしれないが、耳や鼻と比べて特別に鋭敏な感覚ではなく、とても目と呼べる代物ではありません。

しかし、これが昆虫の複眼や哺乳類のカメラ眼に発達すると、ものを見る機能は数百倍か、あるいは比べること自体無意味なほど別の器官になって、水平線から果ては星まで見渡すことになりました。

目を持てば音や匂いを出さない相手でも、遠くから見分けることができるし、しかもその解像力はずば抜けて、獲物や敵の位置をピンポイントで測ることができます。それは言って見れば感覚器の飛車角です。この飛び道具をもって、生き物の生活は大きな変化を遂げることになりました。

相手の位置がわかれば追いかけっこを始めて、これまでよりも動きが速くなる。追われる方にとってみれば、何かの陰に隠れるという行為が始まったのもこの頃からでしょう。生き物は食われないようにして食う。そのために保護色ができました。性淘汰で勝ち残るためには、身体中にめいっぱいの装飾を施して、これが現代女性の化粧のルーツかもしれません。

生き物の生活は変わりました。肌と耳で感じていた世界と、星まで見通す世界には何と大きな隔たりができたことでしょう。優れた武器と目をもった生き物は、多くの獲物をとって豊かな生活を営むが、同時にさらに強大な敵からも見られているわけで、身の安全も危うくなりました。

全ての生き物が貧しく、のんびりと暮らしをしていた時代は終わり、豊かな生活をするためには、気を張って一所懸命に生きなければなりません。そして繁栄した生き物も、豊かさを維持するためにはますます忙しくなりました。改革なくして成長なし、なんていいながら死に物狂いで働くように。

五感を通して得られる情報は、どれも欠くことのできぬものですが、中でも視覚による情報量は圧倒的に多い。しかし、生き物が生活をする上で、本当に大切な感覚とは、昨今手に入れた目ではなく、すでに原始の時代からもっていたはずです。

それは足の裏を通して感じる大地や、常に聞こえる町の騒音、波打ち際の繰り返すリズムで、あまり意識をされませんが、こういう古い感覚ほど生命には重要な意味をもつのでしょう。大脳皮質が多少壊れて計算ができなくなっても命に別状はないが、原始の時代からある脳幹が壊れたら生きていけないように。

五感のうちで多分最も古くからあるのが皮膚の感覚だと思うから、これが一番大切なのでしょう。生き物は常に触れ合う大地の上で自らの生命を感じ、ここで音を聞いて匂いを嗅ぐようになりました。これが目をもつまで三十億年という気の遠くなるような間、続いてきた生き物の姿です。

モニターに映る株価を見ながらキーボードをたたけば巨額の金が動き、小さなところでは注文した商品が届くのも事実ですが、これは本来の命にとっては架空の世界。

ヘレンケラーが目よりも耳を欲しがったのは当然のことなのかもしれません。